芸能人になりたかった私が、なぜライターを目指したのか。

みなさん、こんにちは。

2019年からPENPAL-NOTES(ペンパルノート)という屋号を掲げて静岡県東部地区を中心に執筆の仕事をしている、静岡県富士市在住の佐野美幸(さの みゆき)と申します。

―――――なぜ私が、この仕事しているのか。そのきっかけを赤裸々に話していきたいと思いますので、どうぞお付き合いください。

 

言葉は、誰かを励ますものだから

小さい頃から人見知りで自己主張ができない私は、いつもクラスの中心にいる友だちの横で、ニコニコとしている女の子でした。決して、想っていることがないわけではないのですが、自分のセリフって、どこか飲み込んでしまうことが多かった気がします。

 

 そんな私が、小学校のころにハマっていたことがありました。それは、文通をすることでした。当時は、文通が流行りで、「集う!文通相手」というコーナーを掲げた媒体で溢れていて、そこで見つけた10歳年上の女性に向けて手紙を書いていました。“はじめまして、私は静岡県に住んでいる佐野です”、と。今思えば本当に10歳年上の女性だったのか、怪しい気もしますが(笑)、素直な私は、2年くらい彼女と手紙のやりとりをしていました。

 

 勉強は嫌いだけど、体育の時間は楽しいとか、先生はいつも怒っていて、書き取りについてやたらと注意をしてくるとか、給食のカレーは美味しいとか、そんな日常に溢れていることから、友達とケンカをしてしまった、好きな人ができたけど、話しかけられないとか、ちょっと深い話もしていた気もします。相手もそれに対して真摯に返信をくれていました。「あなたは、とても素直な人だね。その想っていることを素直に伝えるだけでも気持ちは届くんじゃないかな。」とか、励ましのメッセージをたくさんもらっていました。彼女が社会人になったタイミングで、文通をストップすることになったんですが、そのときの悲しさといったら言葉にできないほどで、涙で目の前が見えなくなってしまうくらいでした。

 

 次第に私は、大切な人に向けて、自分の想っていることを手紙で伝えるようになりました。友だちが大学受験で悩んでいたとき、担任の先生が彼氏とケンカをして落ち込んでいるとき、思春期になってちょっと話すのが気まずくなった親に対して、仕事が忙しすぎて、誕生日を祝ってあげられなかった彼氏に向けて、思いの丈を全て手紙に託して書いていました。受け取った皆からは、こんなに自分のことを気にかけてくれて嬉しい!と言ってもらえました。その笑顔を見て、私までとても嬉しい気持ちになりました。口では、素直に伝えられなくても、文章にすることで、誰かを励ましたり想いを届けることができる___。私が、そんなことができる人間だってことに気づくまでには、時間がかかりませんでした。

 

あきらめずに想いを伝えること

20歳になり、品川区にある総合電機メーカーの営業職として働くことになりました。そこで、ある一人の男性と出会います。その男性は、入社15年目で、自社工場の工場長をしていて、私たち営業とは、密接にかかわる立場にいました。私は彼に対して、毎朝、1本の電話をして生産計画を立てなければなりません。ところが、その男性は、電話に出ない、メールに返信はくれないなど、どこか関わることを拒絶していような雰囲気がありました。

 

 そこで私は、どうしたら返事をしてくれるのか、考えてみることにしました。彼の部下に、彼の好きな趣味や興味のあることを聞いてみたり、生産計画は、工場にとって適切であるのかを調べてみることにしたんです。原因が分かったら、次にやることは武田哲也さんがドラマの中で使った101回目のプロポーズ方式を試してみることでした(笑)。あきらめずに毎日連絡を取り続けること、ときには向こうが好きなお菓子を送ったりして反応をみるなどです。送信するメールには、決して業務的ではなく、向こうが喜びそうなトピックであったり、日頃から深夜や休日に渡るまで製品を作り続けてくれていることに感謝するメッセージであったりとさまざまでした。

 

その想いが届いたのでしょうか。半年経過したある日、向こうから短いけど、返事が返ってきました。とてもぶっきらぼうでしたが(笑)。私は、その瞬間ガッツポーズをしました。次第に、電話で一言二言と話すようになり、最終的には、私だけに先行にて製品の情報を流してくれるまでになりました。実は、あとから聞いた話なのですが、10年以上も仕事をしていて、こんなに熱心に自分のことを考えてくれる営業は、私しかいなかったようです。素直な想いは、石のように固い心でさえも砕くことができると分かった瞬間でした。そして、私の中で、言葉を届けるということが、どんどんと大きなものになっていきました。

 

夢を追いかけるのか、結婚をするのか

そんなある日、こんな広告が私の目に飛び込んできました。

「___あなたの想い、歌にのせてみませんか。」

全国で数々のアーティストを輩出している音楽事務所で、新人アーティストを発掘・育成し、楽曲をリリースする会社の広告でした。私は、小さな頃から音楽を習っていた影響もあったので、思い切って入会してみることにしました。

 そこでは、基本的な歌い方を中心に表現のスキルを磨いていき、上達してきたらレコーディングやライブをしたりと忙しくも充実した毎日を送っていました。私はこのままアーティストになってデビューをするんだと思っていた矢先、引っ越しをする話が、浮上してしまいます。それは、当時付き合っていた彼氏が、家の都合で静岡に戻らなくてはならないので、ついてきてほしいとのことでした。そのときの私の正直な気持ちを話すと、かなり嫌でした(笑)。理由は、夢を追いかけたかったからです。でも、私の選んだ道は、仕事も夢も捨てて、彼についていくことでした。

 

尊敬する人の死

なにもかも捨てて静岡に戻ってきた私は、抜け殻のような毎日を過ごしていました。

目的もなく仕事をしたり、好きな音楽を続けたいと思っても、どう始めたらよいのか分からずにいました。やはり、私にとって東京の生活は忘れられないものでした。

 

 ある日、一本の電話が入りました。

___それは、祖父の死でした。気持ちの整理がつかない中、最期の対面を果たします。私は、祖父に対して何度も言葉をかけますが、目を覚ましません。あれだけ面白いことをいって私を笑わせていたおじいちゃんは、もう一言も話さないんです。

 

 悲しみに打ち砕かされるときに、ふと目に入っていたのが、会場から溢れるほどの慰問客でした。葬儀場の人から聞いたのですが、こんなに慰問客がきたのは、祖父が初めてだったようです。実は、退職してからの祖父は、町内会長から自治会長までを務めたりと積極的に地域貢献をするような人でした。何か困っている人がいたら自ら声をかけて、手を差し伸べる。そして笑顔でいることが多い人でした。いつも祖父が、私に言っていた言葉があります。「決して見返りを求めずに、人には親切にしなさい。きっと美幸ならたくさんの人に囲まれた楽しい人生を過ごすことができるよ」と。

 

 そのころからでしょうか、私の祖父の意思をついで、地域貢献をしたいと思い始めたのは。そして、私なりの地域貢献は、言葉を紡ぎ、たくさんの人に優しい言葉を届けることができる執筆という仕事でした。

遮るものは何もない

そこからの私は、個人事業主として執筆活動をしていくのですがそこでも紆余曲折ありました。二人の子どもに恵まれたのですが思うように仕事管理をすることができない、想いを筆にのせることができないといった、つまづきはたくさんありました。でもその都度、改善する仕組みを作ってみたりして、仕事をすることができています。また、私は性格上、若干の試練があったほうが必死に取り組むので、あえて自分を厳しい環境におくことをしています。でもその一歩を踏み出すときって、緊張するし頭が真っ白になるし、たくさんの失敗もします。でもそこから学べばいいんですよね。

___いつかその傷が、私の財産になることを祈って。

 

こんな長いストーリーに心を寄せていただき、本当にありがとうございました。

 

                    PENPAL-NOTES   佐野美幸

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